昭和四十三年十二月七日 朝の御理解
道教乃大綱
「今月今日で一心に頼め おかげは和賀心にあり」
ここの御教の一番大事なところは、私はこの一心にありと思うんですね。「一心に頼め」とおっしゃる「一心」にあると思うんです。一心というても様々あります。一心に願いよりますと、この事だけは、もう私は一心でございますと。報徳祭がこの十日にございます。御本部参拝をさせて頂くのでございますが、現在合楽の方の中に、御本部参拝といえば必ずあすこへ書き出しがあります。お参りになる方達が、まず全部あすこに書かれる。去年の報徳祭にお参りになった方達、その前の年も去年の、その前の年の報徳祭に参った方達、その前の年もというような具合です。参考にして書く訳でございますから、ですからもうほとんど顔ぶれが同じです。これが教祖大祭、四月の大祭もやっぱり同じです。
ですからあすこに書き出してある方達は、別にどうこうと言いよって書き出す訳はないのですけれども、それはこの人達はいつもお参りをする、いわば常連だから。そして中に、この度はお参りが出来ないという方があります。同時に今度は、又この度は又おかげ頂きたいという方達もございます。だからいつも人数が変わらないという具合ですね。本当は、もう今の合楽の信者の人数から言うなら、どんなに少なくてもやはり百名はなからなきゃいけんでしょうね。現在の合楽の御信者数から言えば。
ですけども、そこんところをここでは勧誘という事を致しませんよね、はあ連れて参りなさいというように致しませんから、私共一人一人がそこんところを一心に願うてゆくおかげを頂かなければです、何時まで経っても取り残されるという感じがしますね、あれ以外の方達は。あすこへ書き出されてある方達が、お金があるからとか暇があるからという人達は決してないのですよ。ですからこれはやはり銘々がです、ひとつの一念とでも申しましょうかね、一念、ひとつの念、ひとつの思いというもの。いや御本部参拝だけは春夏秋冬のいわば四回の御大祭があります。どんな事があっても親先生が、この四回だけはおかげを頂きたい。これに去年から青年の方達の正月参拝がございますから、こことしては五回のお参りがある訳です。これはまあ青年の方達ばかり。そん時は青年の方達で団体を組んでお参りをする。ですから私を中心にしてお参りするのは、この四回の御大祭。
例え私はではなくて、私の家、私の家一軒からはです、一人は・・・。去年、この前は家内だったが今度は私。この前は息子だったが、今度は娘といったような風にでもよいから、誰かは家の内一軒からは親先生が御本部参拝される時には、どうでも御供せにゃならんという一念。その一念のある人ばっかりですよ、度々参っておるのは。必ずお許しを頂く訳です。はあ自分が参りよるとじゃないなあ。これは許されて参っておるんだなあと一生懸命のお参りをさせて頂きたいという一念がです、許されて参っておるんだなあというおかげになって、それが実感としておかげとして感じられるわけなんです。
昨夜、近くの方達に火曜日でしたが久留米の古賀さんが「先生、今度の御本部参拝は、あすこに書き出して頂いとりますが、丁度私は今度はどうでもお参りしようと思いよりましたけれども、丁度仲人をする。丁度日にちが一緒になると。一緒になると言うよりお繰り合わせを頂きゃ時間的に夕方からだから、だけれどもどんな風にさせて頂こうかち。それはあんたがよかこったい。あんたが参りたいと思やぁおかげ頂くし、どうじゃろうかと思えば、もうどうじゃろじゃから、しゃっち参らなならんと言う事もないのだから、と言うような取付くしまもないような、その答だったんですね、私の。
兎に角今晩の御理解、昨夜の御理解、あんたこの前のお参りの時にもお参りするごとしてから何か差し支えが出来て参らなかったろが。二編もつなげたらいかんばいと、まあ言う訳なんです。この前のも何か差し支えがありよった。今度も又差し支えが出来たと。おかげ頂かんならん時に神様の方に今度も差し支えが出来たばい、今度も差し支えが出来たばいと言われたらどうするかと言う訳なんです。そしたら次の瞬間には腹が決まったらしいんです。ではどうぞ今度は、又お繰り合わせ頂いてお参りさせてもらうと。そうなんです。どうでもお参りさせて頂きたいとお繰り合わせ下さるんだと。私がどうでも参りなさいと言うた分にはいかん。これは金があるからとか暇があるからないからじゃない。これは私共の信者時代に御本部参拝というたら、もう金があってもなかっても。
先日青年会の会合だったでしょうか。こんな話が出たんです。金が無かったら歩いてでも参るというつもり。お金が無かっても団体参拝の発つとわりはちゃんと準備だけはしてから教会まで行き、もし教会まで行って行かれれば駅まで行くつもり。誰かから出してもらおうと汚い心はこれから先も無いとです、本当。けれどもそれも言やぁがむしゃらと言えばがむしゃらですけれども、いわゆるもう一念凝り固まってるっていう感じです。ある時なんかは私は片道で参りました。片道の旅費だけしか無かった。秋永先生他二人の人達が一緒でしたが、奥城で帰りがけの事をお願いしよりましたら三人の者に話してみろという意味の事を頂いたから話しましたら、秋永先生が持っておる財布北野のかくみつぁん、それと正義さんだったでしょうか、三人が持っておる財布の中に入っておるお金と私の旅費が・・・。その時はあ、あんただんおかげ頂かなならんとばいち、と言った事をだったんですよ。
どういう考えですね、例えば私は片道で参ったじゃろうか。それは分からんとです、私も。誰かだしてくれるといったような狡い考えじゃ決して無い事だけは言えます。もう兎に角その一念なんです。ですから作りばっかりだすならですね、はぁ大坪さんなぁ本当に狡い人じゃと思うばってんが実際に今度出し合わせのところが、きっちり切符を買うだけのお金を持っとるから、これは私達が御用に使われておるという実感がある訳ですね、三人も。神様が私共の財布の中までご承知であったんだなあ、大坪聡一郎一人を参らせる為にというような実感の中に、それこそ有難い勿体ないで御用頂いて下さった事があるんです。一心なんですねえ。
そこでです、一心というてもです、どのような事に一心を向けるかという事。私が御本部参拝の事、古賀さんなら古賀さんに言う事を聞かせて頂いて、御本部参拝がどんなに意義のあるものか、どんなに有難いものか、これならばおかげが受けられるという確信を持っておるから言えれるのです。暇を費やしても時間を費やしても、これはお金を費やしましても・・・。
ですから、そういう一心を持って御本部参拝をするというような人達が、本当は段々合楽の中にも沢山増えてこなければならない。いちいち勧誘して回るのではなくて、そういう一つの思い込みを持った信心者が増えていかなければならない。そして一人一人が体験する事はです、一心を持って、私は昨夜はそれを一つの執念にも似た心とこう申しましたがね、そのひとつの執念にも似たような心で御本部参拝を願っておればです、確かに時間の上にも金銭の上にもお繰り合わせを頂くのに、この事だけはどうしておかげが受けられんじゃろうかという事がある訳です。そこに私は分からして頂かなければならん。御本部参拝は神様が確かに喜んで下さる事だから、一心を例えばおかげになるという事が分かる。ところが他の事の願いを様々に沢山持っておるけれども、この事も確かに私は一心で、いわば執念を燃やしての信心もして願いもさせて頂いておるのに、この事が実際おかげにならんのはどうした事であろうかという事に・・・。そういう一つの実証なんですね。神様に喜んで頂くといったような事に一心を燃やせばおかげが受けらる。個人の願い、例えば個人の願いというか、自分のバラバラの願いというようなもの、バラバラというてもおかしいですかね。例えば病気を治して下さい。お金のお繰り合わせを下さいという事でもいいでしょう。けどもこの事だけには一心を立ててもおかげにならんという時にです、私はその一心を検討しなければならんと思うのです。そういう意味合いで、私は御本部参拝はね、一つの本当に一つのどうでもこうでもという執念に燃えた人達の参拝であると同時に又おかげを頂いて今度はお礼参拝をさせてもらおう。今度は十二月のお参りであるから一年中のお礼とお詫びの為にお参りさせてもらおうという、又飛び入り的な人達も沢山あられなければなりません。そして段々私が申しますように一念この事だけはと一念を燃やせれる人が出来なければ本当の、私はおかげにならんと思う。
そしてこの御本部参拝だけは、このようにおかげが頂けれるのに、この事がおかげが受けられないというところに不信感を感じるようになるから、これは私の一心をますこし検討しなければならないなぁという事になってくるのです、必ず。御大祭なら御大祭、神様が喜んで下さる事に間違いないというような御大祭に一念を燃やして、その為のいわば奉仕をさせてもらう、御用をさせてもらう。今度の御大祭にこれ位の事はどうでもこうでもと思やぁそれがおかげになる。これは神様喜んで下さる事だからその焦点が願いが、けども自分の事やらは自分の家の事やらは、いわばおかげにならんとするならです、願っておるその一心を検討しなければならない。
私「今月今日一心に頼め」とおっしゃるこの一心がいよいよ問題だと、こう思うのです。それこそ講談なんかでやります、一心太助じゃないですけれどもね、腕に彫り物をして一心鏡の如し。その一心が果たして鏡の如しというかどうかという事なんです。不純なものがないかという事なんです、その一心の中に。一生懸命お参りもしよる、一生懸命この事だけはと思うて願いもしよるけれども、願う心の内容が不純なものであってはならない。不純なものがあってはならない。そこんところを私は検討しなければいけない。
これも昨夜の企画の、いろいろ企画の話が進められていく中に、今度の植樹、いわゆる造園の事についての、もう本当に中心になる方達に昨日私が聞いてから本当に有難い事でもある、本当に責任ということを感じる事は有難いと思った事は正義さんと宮崎さんが、いわば委員長と副委員長なんですけれども、それが日に何回かはやって来るです、今は。やはり責任を感じてるからですよね。いわば植木屋との事、植えたばっかりの事、それに対する手配。私、本当にもう昨日なんかでも、今度大きなもちの木がお供えになりました。兎に角こんな大きな、とりまわしも出来ないような大きなもんだそうです。昨日青年会の方達が十名余りで、兎に角一日がかりで掘るだけはようやく掘ったんです、とゆう位に大きなものなんです。
ですから夕方から友田さんが先頭で参りました、宮崎さんが。そして正義さんはそれを運搬する為に、どの程度の木であるかは調べておかなきゃならんもんですから、聞いておるけれどもとても自分がたの車なんかでは出来はせんのだから重量運搬の車でなんとかしなければならん、それの手配が必要だと言うので、昨日わざわざ又見に行った、夕方から。ところがとてもとても、もう玄人ならば絶対倒させんち言うんです、正義さんが見てから。玄人なら手掛けはしない。もう素人だから、あれを買いもすりゃ倒しもしたんだと。
けれども、その燃やしておるうちに、これを例えばお供えをするのは堤さんなんですけれども、堤さんがお供えをしようと思うたから、それを一生懸命どげな事があったっちゃ、これがという一念を燃やしておる事がそういう働きになってきたんでしょうね。そこでそんならそれを受て立つほうの、例えば久保田さんも正義さんもです、そのためにもう大変なやはり苦労、その事だけじゃありませんけれども今度の造園の事で、昨日二人が口を揃えて言っておる事が、晩が眠られないち言うんです。この人なんじゃろうか、晩が眠られないごたる。そげなこつがと思うけれども、それは責任を感じて一生懸命であるから晩が眠られんごたるとこう言う。秋永先生達が御造営の時に晩が眠られないち言いよった事と同じような事なんです。責任上どうでも、これを完成しなければならないと言う、その一心なんです。
だからこの一心はですね、もっともっと検討されなきゃいけない。その事をですね、例えばどうでもこうでもうやり抜かなければならないという、その執念とでも言う、執念といや、あんまり良い言葉じゃないですけれども、だから執念にも似た一心。しかもその一心は鏡の如しと言うものでなからなければならないという事。それを今宮崎さんやら正義さんやらは、今度の植樹という事に対しては、その位に一念を燃やしておる訳なんです。
けれどもその一念であり、その一心は私はもっともっと検討されるべきだと思うですね。その為に決して不純なものがあるとは思われない。それでいっちょ儲けてやろうとか、そんな事は勿論あるはずもないし、沢山の時間をかけて毎日こうやっておかげを頂いとる訳ですけれどもです、けれども信心で言う一心鏡の如しというのは、まあなんぼでも検討が出来る訳なんです。
第一眠られんと言う事がおかしい。鏡の如しと言う一心なら眠られん事はない。又神様を確信しきって、その底に安心のおかげ、これは大変難しい信心ですけれども、だから自分どんが一心を燃やしとるけれども晩眠られんごたると言う事は、まあだほんなもんじゃないばいと言うて、その自分の心を検討していくところから生れてくるのがね、和賀心なんです。一心に頼めおかげは和賀心。和賀心である時には、絶対眠れん事はないです。けれども今度の植樹の事ではいわば幹部の方達は、そのような一生懸命の願いと思いをもってしておる事を皆さんが考えられて、しっかり人ごとじゃない銘々の事として祈りもしなければならない、本気での御用もさせて頂かねばならんと言う事を、皆さんひとつ改めて思うて頂きたいと思うですね。世話人にまかしとくだけじゃいかんです。
これは又余談ですけれども、又最後の会議でしたから一遍帰ってから又正義さんがやって来ました。丁度御祈念が済んで御理解半ばであった。私がその事を例にとって御理解しよった。正義さんと宮崎さんと脇殿でその話をして私が食堂の方へ参りましたら、新聞が丁度きとった。新聞の見出しにこんな大きな活字で書いてあるのが「虎の執念」と書いてあった。何かわずか五時間なら五時間でひとつの事が成就したといったような事が横にこう書いてある。したら何か野球か何かの事だったらしいですね。
勿論虎の執念と言えば私の事でしょうね、言うならば。ここで私を虎年虎年と呼び掛けて下さるのですから。虎の執念、虎の一念、今度の御造園の事でも、虎の一念。虎の一念という事は、私の我執か。私の執念という事は我執じゃない。これは天地の親神様の執念なのだ。虎の一念、虎の執念はそのまま神様の執念なんだ。いわば神様が立ち上がってござるのに、私も立ち上がっただけの事。神様の願いが成就する事の為に私が一心を燃やしておるだけの事なんだ。
成程、燃やしておる証拠と思われる事が植樹の上にもです、表れておるです、様々な。ですから執念というのは、執念にも似た一心ということ。しかもその一心がです、神様の願いにこたえ奉ると言う、不純なものではない。自分達の総代時代にこれを造るという名誉の為にとか、自分達が世話人であった為に、その責任にかけてだけといったようなものではなくて、どこ迄も真心一心。いわゆる一心鏡の如しと言う、その心を追求しながらの信心、そこから生れてくる和賀心。
「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」ここで一番検討されなければならん事は一心だと。一心にお願いしよるのにおかげが頂けんのは、和賀心になれないからだと言う事になるんですね、言うなら、早く言うと。そこでその一心を検討させて頂いたらその一心の中に曇りがあった。先日から頂くように、この和賀心といったような心は、なかなか普通一遍で頂けるもんじゃないと。そこで、これを詫びると言う事ね、田主丸の九の字に点とという意味で頂いたんですけれども。
これは昨日でした。もう兎に角もう母が飛んでここにやって参りましてから、ほうほうち言うちからいっときものが出らん風にしてからやって参りましたもん。あら何か具合の悪くなったとじゃなかろうかと思いましてね、ところが神様から何かお知らせを頂いた事が、私は丁度十二時下る時間だったもんで、もう下がった後でじゃ出来んからと思うて廊下を一生懸命急いで来たらしんですよ。もうここに倒れるようにしてから、ほうほう言うちから「どうしたの」ち。「いやちょっとあんたが下がる時間じゃから下がる前にちょいと出て来たという訳なんです。
それがあんまりお知らせがね、あんまり良くないお知らせじゃったから、今日は植木堀りがありよるち言う事じゃから、木は過ちどんあっちゃならんから、兎に角お願いして下さいと言うてやって来て話を聞かせて頂きますと、ここの表にですね、沢山大きな薔薇にですねスルメをいっぱい入れてお広前へ持ち込んできておるところを頂いたと。「それはおばあちゃん安心しなさい。これはもう大変おかげな事よ」と私が言うんです。「そんならよかばってん。私はスルメち言うけん、イカはこうやってスミはくでしょ。だからこれは悪かお知らせじゃろうと思うてから、そしてイカちゅうやつはびっちゃげしもうとるから木の下になってびちゃげしちゃならんと思うてから、一生懸命走って来ただけ」いいやびっちゃげはせん。スルメのお知らせは良かお知らせ有難いお知らせ。
それが最近言うておった、例えば今月の一日の月次祭に申しましたように、今月はお詫びの信心でいこうと。一年中の事を本当にお礼を申し上げると同時に、これだけのおかげを頂いてきたのに、この事も出来なかった、あの事も出来なかったというです、ひとつお詫びの一心を持って、今月をおかげ頂こうという。やはり皆さんがですね、お詫びの信心をなさりよるとか、なせというのか分からんけれども、スルメのお知らせはいっちゅうがスルメと言う改まるという事なんです。改まる。その改まったところからするめのような小味のある喜びが生れてくるんだというのです。それを二匹、三匹じゃない、沢山の人達がですねえ、はあこれは、十二月はひとつ改まっていこう、詫びていこうというようなおかげを頂いておられるだなあと私は思うた。又そこんところに焦点を置いてない人達はひとつ本気でスルメの信心が今月はなされなきゃあならないという事である。だからこの報徳祭御本部参拝も言うならばお詫びの印にお参りさせてもらおうという事である。そこからです、いわば和賀心と、例えば私の心の中には不純なものがあっても、その詫びる心によってです、和賀心と同じような受け物を神様はそういう風に認めて下さる。
だからそうゆう意味合いに於いての和賀心もあるけれども、今日私が言う「一心に頼め」というのは、一心の追求から生れてくる。御本部参拝の時の一心ならこんなに成就するのに、自分の事やら他の事やらは成就しないのは、その事が神様に喜んで頂くという事じゃないのかもしれん。又は自分の心の一心に曇りがあるのかもしれんと検討して、その一心をいよいよ鏡の如きという事に目指しをおかして頂くところからです、その事がです、心の中に喜びになって開けてくるのです。
「一心にまめで繁盛するように願え」あれは御理解二十八節でしたかね。最後の所にありますでしょ。自分の心が健全でなからなければならない。しかもその健全な心で一心でなからなければならない。そこで繁盛するように願えとおっしゃるのですから、信心の喜びには絶対の繁盛が伴うものだという事なんです。
信心の喜びには、もう絶対に繁盛というおかげが伴うのだ。いわゆる妙賀栄える富貴繁盛なのである。信心によって生れてくる喜びの妙賀。この妙賀にはです、絶対富貴の繁盛富貴繁盛の富み栄える繁盛のおかげが伴わなければならない。有難い有難いと言うておってもです、もし繁盛が伴うていなかったらです、自分の喜びはいわゆる妙賀じゃないと言う事をです、分からしてもらわなきゃならない。そこに一心の追求がある訳です。只地団駄踏むように一心に願うと、もうこの方一心と、この方一心であろうばってん、この方一心と思うて願っておる一心そのものがです、濁っておっては和賀心は生れない。和賀心が生れなければおかげは受けられない。尽きぬおかげにはなってこないという事。
今日の「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と、これは皆さんがよう分かっておられる事なんです。けれどもこれが本当に具体的にです、自分のものにする為にはです、まず自分の一心というその一心をひとつ検討してみなさいという事。そして、その検討させて頂くところからです、スルメのお供えという事にもなってくる。本気で改まるという事になってくる。そこから生れてくるのが和賀心。この和賀心、この喜びの心にはです、この妙賀にはです、必ず富貴繁盛のおかげが伴うてくるのだ。他の事で生れてくる喜びは知らんけれども、信心によって生れてくる喜びには、絶対のおかげが伴うてくる。そこんところを自分が本当のものか本当のものでないかといったような私は検討が必要じゃないかと、こう思うのです。
ここんところが天地書付にもありますよねえ。「今月今日で一心に願え」とありますねえ、天地書付には。ここには「一心に頼め」と、こう言うておられる。「おかげは和賀心にあり」と、仰せられるのでございますから、先ず自分の一心をひとつ検討してみて、それに和賀心に繋がるような一心を出さしてもらい、その一心とは私は執念にも似た心だとこう思う。執念、執念じゃない。執念にも似た心、それが一心だと。なら、その一心もです、執念で相手を祈り殺すといったような事さえ出来るのですから。
この頃の新聞でした。兄弟四人の執念がです、どうでも親に孝行したいと言うので見事な家を建てたんです。兄弟が四人、親に孝行するというので家を建てたんです。ところが自分達の小さな働きではどうにも家が建たんごたる。だから兄弟四人が共謀してですね、もう九州中の、山口県から九州中に渡っての建材店荒らしをやったんです。建築道具を売りよる所のセメンを取ってくるやつもありゃ材木を取ってくるやつもある。そしてそれは御殿のような家を建てたというのですよ。執念です。そして親に安心してもらおうという、喜んでもらおうという、その健気な心はよかったけれども、いわゆる方法が悪かったんです。だからいくら執念でも、そういう悪い事もあるのじゃから執念で出来ん事はなかです。
さあ、それを見た親の悲しみというのものは、もうそれこそ一遍に谷底に突き落とされるような事であったろうがです、そういう執念ではいけないのです。まあ言うならばそれに似たような執念であってはいけないのです。どこまでも、信心でもです、願うその焦点というものが、神様の心に、いかにも虎の執念、それがそのまま神様の執念でもあるような、私の願いはそのまま神様の願いにも通じるような、私は素晴らしいものでなからなければいけないと思うんです。私の願いは神様の願いと同じ。あなた方が願っておられる事は、神様が喜んで下さる。神様の願いでもあるという、そこにですね、私はいわゆる執念を燃やす。それをここでは一心と私は思う。だから自分が思うておる、その一心もなお検討させてもろうて和賀心に繋がるおかげを頂き、和賀心に繋がる一心であり、執念でなからなきゃならんと思うのです。どうぞ。